ざぁぁぁぁ
　風は草原を渡って行く。
　うなる緑の波を彼女は見つめていた。
　遥か異国の景色。
　もう二度と見ることの出来ない風景。
　失われし大地の姿を胸に呼び出し問いかける。
　答えてくれる人があるわけではないのに思いだけが募って行く。
　その緑の中に黄金が揺れた。
　遠くから手を振る輝きに彼女も静かに片手をあげて答える。
　
　なぜ…
　　　どうして…
　
　口に出せば誰かを恨むことになるけれど恨みや憎しみなくしていきることは今の彼女には辛すぎた。
　失われたものが輝かしいほど、
　失われたものが鮮やかであるほど、
　悲しみが心を捕らえていく。
　望むとおりの夢を見られるならどんなに幸せだろう。
　
　風がレンスターの大地を渡って行く…。
　

　　麦が淡く色づいていた。
　遠くから自分を呼ぶ声がして振り返る。
　黄金の麦の間から手を振る人がいた…。
　
「起きなさい。朝よ、起きなさいよ」
　肩を揺する手と声に彼は目を覚ました。
「寝ぼすけアレス。早くしないと何も食べられなくなるわよ」
　腰に手をあて、上からのぞき込むような格好で少女がアレスに告げた。
「ほら、早くしなさい」
　命令調のその声にむっとしながらアレスは寝床を出た。
　
　美味しそうなスープの匂いがする。
　その匂いにたどり着く前にタオルが渡される。
　早く顔を洗ってこいと言外に示している。
　井戸のある中庭に出て顔を洗い、大慌てで服を着替えるとようやく食堂に通された。
「おはようございます。アレスさま」
　さっとスープをよそいアレスの前におく。
「おはよう。マリア」
　スープに続けてパンが出される。
　アレスは短くナーガに祈りを捧げると朝食を勢い良く頬張りはじめる。
　育ち盛りの少年には充分な量とは言えなかったが、味だけは申し分無く美味しかった。
「母上はもう召し上がったの？」
「ええ、グラーニェ様は気分がいいようなのでお早めにお召し上がりになりましたよ。今は薬草園にいらっしゃいますよ」
「寝ぼすけのアレスと違ってね」
「こら、レイス！」
　横からちゃちゃを入れる娘をマリアは叱る。
　口の聞き方はともかく、寝坊に関しては言い返す言葉はなかった。
　日はすでに高く昇り、村の人々は一仕事を終えてくつろいでいる。そんな時間だった。
　パンでスープを丁寧に掬うと、食器を洗い場に出して席を立つ。
　薬草園へと続く廊下を歩きながら服の襟を正して、手ぐしで髪を撫でつける。
　ゆっくりと二度ばかり深呼吸をして、薬草園に入るための扉を開けた。
　
　明るい陽に導かれるようにして歩みを進める。
　母はどこか遠くを見つめている。
　背の低い草花に囲まれた一角に置いた揺り椅子の上でどこかはっきりしないモノを見つめている。
　幾度と無く見てきたその姿にアレスの胸に小さな痛みが走る。
　それを忘れようとぎゅっと握り拳を作るとアレスは意を決して母を呼んだ。
　
「母上」
　
　自分を呼ぶ息子の声にグラーニェは振り返った。
「おはようアレス」
　穏やかな笑みを浮かべ、息子を手招きする。
　側に立つアレスの背は座ったままのグラーニェより高い。服の袖や裾もどことなく短くなっている。
「どんどん大きくなるわね」
　そして、どんどんあの人に似てくる。
　その言葉をグラーニェは飲み込んだ。
　何度口にしても取り戻すことの出来ない人の名前。
　もうこんなに時間が過ぎたというのに。
　両親の足下をちょこまかと走り、城内の人々に笑いかけていた幼子がこんなにも大きくなるほどの時間…。
　心配そうに自分を見つめるアレスと目があい、微笑もうとしたグラーニェの瞳から一筋の涙がこぼれた。
「母上、ご気分が悪いのですか？　大丈夫ですか？」
　どうすればいいのか分からなくなりアレスは必死になって母に声をかける。
「大丈夫よ。アレス。ただ、あなたを見ていたら懐かしくなってしまっただけなの」
　何度口にしても思い出は色あせない。
　それどころか鮮やかになってよみがえってくる。
　そして母の中にある思い出はアレスには踏み込むことの出来ない領域だった。
「ねえ、アレス。あなたのお父さまは素晴らしい方だったのよ」
　幾度となく聞かされた言葉。
　騎士の中の騎士だとグラーニェは繰り返した。
　ノディオンの王として、ミストルティンの主として、エルトシャンがどんな人物であったのか、どれほど人々に慕われていたのか…。
　気高く、雄々しい騎士の姿が描き出される。
　それを一際強くアレスの心に刻みつけているのが母が宝物にしている一幅の肖像画だ。
　父と母と幼い自分ともう一人の女性。
　父の妹だと教えられてきた女性について詳しいことは一度聞いたきり、二度と訊ねることは出来なかった。
　少し哀しそうに「どこにいるのかも分からない」と母が言ったからだ。
　生きているのか、死んでいるのかすら分からないのだと…。
　マリアに訊ねても答えは一緒だった。いや、マリアはどことなく叔母を非難していた。
「素敵なお姫さまでしたけどね…」
　母の乳姉妹のマリアは口で言う以上に叔母を嫌っていた。
　素敵なお姫さまの話は続くことはなく、いつも話は母の従兄弟で、父の親友であった人に向けられる。
「キュアン様さえ生きていれば…」
　その人は、同じく父の親友であったシグルド公子を助けるために一軍を率いてグランベルへと向かう途中でイード砂漠でトラキア兵の手にかかったのだと言う。
　それ以上にシグルド公子の名はどこか禁忌な響きが含まれている。
　賞賛を押し隠し、誰もが悪し様にその名を呟く。
　何故人々がそのように父の親友を言うのかアレスには分からなかった。
　理解するにはまだあまりにも幼すぎ、触れる世界は狭すぎた。
　
　一日の勉強を終え、今日の成果を伝えるためアレスは母の元を訪れた。
　いつものように寝台の傍らで本のことや家の外のことを話していると、グラーニェの手が優しくアレスの頬を撫でた。
「アレス。今日はあなたに渡しておきたいものがあるの」
　そういってグラーニェはマリアを呼ぶと、一振りの剣を衣装箱から取り出した。
　まだアレスには大きすぎるその剣の銘は「ミストルティン」と言った。
「危ないから気をつけて」
　鞘を外し、淡く輝く刀身を見つめる。
　アレスが柄を握ると剣が一層輝きを増す。
「なんだか…懐かしいや」
　知らずアレスの口から呟きが漏れる。
　剣も喜ぶように輝きを増す。
　その淡い輝きにグラーニェは目を細める。
　かつてその輝きを目にしたのはいつのことだったろうか。
　ヘズルの輝き。
　黄金の光を受けてアレスがそこにいる。
「アレス…」
「はい、母上」
「その剣は今日からあなたのものよ。それはあなたがヘズルの血を引く者であることの証し。誰にもかえることは出来ないわ」
　剣を握るアレスの手に自分のそれを重ねる。
「あなたのお父さまも、そのまたお父さまも…。幾人ものヘズルの後継者たちがその剣を手にしてきたのよ」
　十二聖戦士に力が与えられたその日から…。
「ありがとうございます。母上。この剣に恥じぬよう立派な騎士になります」
　アレスはそう誓った。
　今は領地もなければ彼を騎士へと推薦してくれる者もいない。
　レンスターの片隅に忘れ去られるようにして存在している小さな村ではその志が報われる日は来ないのかも知れない。
　そんな思いをマリアは決して口にはしなかった。
「アレス、お父さまのことを忘れないでね。ヘズルの名に恥じない生き方をしたお父さまを…」
「はい」
「良かったわ。ありがとう」
　元気良く返事をするアレスを眩しそうに見つめてグラーニェは瞳を閉じた。
　
　異変に気がついたのは、少し後のことだった。
　自慢げに見つめていた剣を鞘にしまい、いつものように話し疲れて寝てしまった母の手にキスをしようとしたとき、アレスはその手の冷たさに気がついた。
　恐る恐る脈を探る。
　もともと心臓の弱いグラーニェの脈は小さく、手首では触れないことがある。
　手首で触れなくとも、首で触れないことはなかった。
「は…はうえ…」
　小さな声はやがて大きくなり、アレスは繰り返し何度も母を呼んだ。
　マリアが村にただ一人のライブを使える司祭を呼びに行き、戻ってくるまでの間何度も母を呼び続けた。
　やってきた司祭はライブの杖を数回降った後、力無くうなだれた。
　
　グラーニェは村の墓地に葬られた。
　光にあふれ花にあふれたその場所は、村人にとって憩いの場であった。
　本来ならばノディオン王妃として、またレンスター王家に連なる者として、しかるべき墓所におさめられるべきなのであろうが、そのどちらの国も無かった。
　ただ一つ、以前からのグラーニェの願いによって墓はノディオンに向けて立てられた。
　光あふれる地を眩しそうに見つめるように、墓には常に穏やかな光が降り注いでいた。
　
　リーフ王子を匿っていたとして、アルスターが攻め落とされ北トラキア一帯はフリージからの侵略者の下に置かれた。
　そして悪化する治安の中でアレスの住む村が山賊たちに襲われるのはわずか数カ月後のことであった。

おわり