その人をはじめてみたのは読書室だった。
　ノディオン城には初代城主であったレニア姫以来の伝統により古今東西の奇書・稀書の類が多く保存されている。
　その中身は恋物語・笑話集から農政書や古代竜族の研究書まで多方面に渡り、城主ですら全てを把握してはいなかった。
　それ故に読書室の利用は王族か国王が認めた者に限られており、国王エルトシャンの御代において利用を許されていたのは、国王とその妻と妹、それから先々代からこの読書室の蔵書を研究している老人とその弟子が週に一回訪れる。全て合わせても五人だけだった。それ以外の人が利用することはまず無かった。もっとも城に滞在を許された諸侯が訪れることもあるが、なんらかの理由があった滞在者がわざわざ読書室を訪れる。それは滅多にないことだった。
　だからこそ普段のこの場所は私にとってちょっとした休息所になっていた。
　でも、その日は違っていた。
　城内の騒がしさから逃れるようにして扉を開いた私は、そこに先客の姿を認めた。
　育ちの良さそうな少年が真剣な眼差しで兵法書を読んでいた。
　視線は揺らぐことなく文字を追いかけているらしく私にはまるで気がつく様子がない。
「…こんにちは…」
　向かい側のソファに腰を下ろして声をかけると、彼は驚いてこちらを見、優しい笑みを浮かべて同じように挨拶をした。
「こんにちは」
　笑みと同じで優しい声だった。
「何を読んでいるの？」
　私の問いかけに彼はしおりを挿んで本を閉じると真っ直ぐにこちらを見た。
「兵法書です。もともとはグラン共和国時代に書かれた物らしいのですが、それに十二聖戦士の戦略などが加えられ、百年ほど前に出された物です」
「詳しいのね」
「いえ、ちっとも。私は従者として主人の意図することを知らなくては行けません。用兵術もその一つなのですが、まだまだ私の知識ではシグルド様には及びませんので」
　シグルドという名はよく知っていた。
　グランベル王国のシアルフィ公国の長子。バルドの継承者。
　兄の学友…いや、それ以上の親友とも言える人物だ。
「シグルド様の従者なの？」
「はい。ノイッシュと言います」
　青いきれいな瞳には穏やかな光が満ちている。
　まっすぐで従者にしておくには惜しい…。そんな気がする。
「すごいわ。シグルド様はあなたのような従者がいて幸せだわ」
「そうでしょうか？」
「そうよ。だって今日はどこの従者も浮かれて酒樽の中に頭を突っ込んでいるような有り様なのよ。そんな中で勉強しているなんて…」
　私の言葉に彼は頬を赤らめた。
　その可愛らしさに笑みがもれる。
　こんなに純朴そうな従者を見たのは久しぶりだった。
「あの…」
「あなたって、本当に可愛らしい人だわ」
　私がくすくすと笑い続けているとノイッシュは困ったように本の背表紙を撫でている。
「うちの妹にもよく笑われています」
　小さくため息をつき、彼は笑った。
「妹さんがいるの？」
「ええ、兄が一人と妹が二人。上は多分あなたと同じぐらいの年で、下のはまだ六歳ですよ」
　家族を語る声は温かい。
　それは家族の持っている雰囲気と同じ。
　幸せな家族なんだろう。シアルフィ公も公子も家族を大事にする人らしい。そんな人の従者なのだ。
「すみません。なんだか自分の事ばかり話してしまって…」
「いいのよ。聞いていて楽しいもの。だって私は…」
　自分のことを話そうとしたとたん、扉が開いた。
「ああ、ここにいたのか…」
　その凛とした声は兄、エルトシャンの物だ。
「この度は王子様誕生おめでとうございます。それから、読書室を使わせていただき、ありがとうございます」
　直ぐに立ち上がるとノイッシュは頭を下げて兄さまに礼を言う。
「ああ、ノイッシュか。久しぶりだな。家族は息災か？」
「はい。みな元気にしております」
　ノイッシュの声は穏やかに響く。
　気負ったところが無く心地よい。
　兄さまの好きそうなタイプだ。
「そうか。ここは好きに使うといい。シグルドの滞在中は自由に出入り出来るよう取り計らってある」
「ありがとうございます」
「構わない。ところで、ラケシス…」
　兄さまは私を見ると少し呆れたように眉をひそめる。
「早くきがえてくるんだ。お前がいないと侍女たちが大騒ぎしていたぞ」
「乳母やってば兄さまの所まで行ったの？」
「グラーニェの所だ。さっきすれ違ったんだがな」
「あーあ…」
　溜息をつくとノイッシュと目があった。
　なんとなく気恥ずかしくなって私は紅くなる頬を押さえた。
「早く乳母殿を安心させてあげて下さい。姫さま」
　姫さま…。
　そう呼ばれるのはあまり好きではないけど、子供みたいに駄々をこねるのもいやだった。
　もう一度深い溜息をつくと私は立ち上がった。
　ノイッシュに別れを告げ、兄さまとともに読書室を出る。
　
　この城にシグルド公子が滞在している間、どういうわけだか私が読書室に近づく機会は無かった。
　そしてあの可愛らしい従者に再会するのはそれから数年後のこと。
　いつまでも見つめていたい…あの人がそんな騎士になった時のことだった…。

【おわり】